2013/02/27

伝説の母

最近、simplogの便利さにかまけて、写真の投稿場所となっていたこのブログ。
写真を見てその日のことを振り返るのもいいけれど、写真だけではその時に何を考えていたのか思い出せない。
ブログには適度に文章もないとつまらないものだ、と感じた今日であった。


話は変わるが、最近、母(実母)と会う機会が増えた。
私の母は、とても愉快な人なのだが、最近より愉快さが増して来たように思う。

先日のこと、携帯電話ショップに共に出かけた。
番号札を取り、待合室で下の写真(くまモンと母)を撮ったり、談笑したりして順番を待った。
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「受付番号○○番の番号札をお持ちのお客様、○番の窓口までおこし下さい」とのアナウンスが聞こえたので、順番が来たかと、私は自身の手に持つ番号札を見た。

そこで母が一言。

「今の人、上手かねぇ」


今の人??
何のことだ?

「今、言わした人、アナウンサーのごたる(今仰った方はまるでアナウンサーのようだ)」

番号札のアナウンスの声に反応した母、残念なことに、そのアナウンスはショップ店員ではなく機械から発せられた声だった。
上手いはずである。


いつも母はこんな調子。


順番が来て、窓口で対応してもらっていた時のこと。
免許証の提示を求められ、差し出す母。
母はゴールド免許の持ち主である。

私「ゴールド免許?すごかね~」
母「この前、信号無視で捕まったけん、次からはブルー免許になる」
私「ほんと?もったいない」
母「ほんと。歯がゆか~!」
私「誰が悪いと?」
母「信号!」

…と、こんな感じである。


この日、かなり古くなった母の携帯電話の機種を交換した。
新しい携帯電話を手に、帰りに一度だけメール送受信を練習して別れたのだが、使いこなしているだろうか…?

2012/12/08

軍艦島へ

12/5(水)、「九州グリーン・ツーリズムシンポジウム 2012 in 長崎」の分科会に参加、軍艦島に行くことになった。

当日はとても寒く、海も荒れ模様で、軍艦島に接岸できるかどうかは行ってみなければわからないそう。

長崎港から伊王島、高島を経由して、いざ軍艦島へ。


近づいてくる軍艦島、小雨がぱらつき出した。

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雨の中無事に接岸でき、軍艦島へ上陸できた。
島内では傘の持ち込みが禁止されており、私は船内で販売されていた簡易カッパ(¥200)を購入し着用した。
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島内で立ち入ることができるのはごく一部。
上陸時間は40分、限られた時間内にガイドさんの説明を聞き、整備された歩道を歩く。

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歩いて行くことのできる一番奥のスポットで撮影した坑夫の住居のアパート。
1K6畳程の間取りに多い時には6人が住んでいたそう。
24時間稼働している炭坑に3交替制の勤務、住居には眠るために帰るだけだったようだ。


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坑夫たちは階段を上り、火気の持ち込みがないかの簡易チェックを受ける。
坑内で充満するガスに引火しないようにするためだ。
その後、炭坑へ向かうため、手すりだけが付いたエレベーターに乗る。
600m程真下に下りると、1~2kmの坑道を歩いて進み、ようやく仕事現場にたどり着く。
気温40℃、湿度90%という厳しい環境の中、石炭を掘り進む。

勤務を終え、また来た道を戻り、エレベーターで地上に戻る。
階段に見える黒い色は、坑夫たちが仕事を終え戻った際に足に付着した石炭の色なのだそう。


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高台に見えるのは、幹部職員たちの住宅。

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大きな建物は学校。右に見える橋脚はは石炭の輸送路の足場。

一時期は、5,000人が住んでいた「軍艦島」こと端島。
世界一高い人口密度を誇ったこともあったそう。
日本で最初に鉄筋コンクリートのアパートがつくられたのは、東京でも大阪でもなく、日本の西にある小さな島、この端島だった。
商店や理容店など生活に必要な施設だけでなく、雀荘や映画館などの娯楽施設もあったという。
近代産業発展の栄華がここにあった。

エネルギーが石炭から石油に変わり、炭鉱は閉山、1974年にはこの島の住民はひとりもいなくなった。

栄華のあとが残る端島。
毎日命をかけて働く坑夫と家族たちの生活や活気がここにはあったはずだが、生活のにおいはどこからも感じられなかった。
寂寥感を感じずにはいられなかった。

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日々風化し続ける端島。
今年の夏の台風と高波の影響で接岸箇所近くのコンクリート塀が崩れたそうだ。

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これは、当日撮影した端島の全景。
風化で毎日姿を変えているとのこと。
これと同じ姿をもう見ることができないかもしれない。

2012/11/28

献血よりも簡単

つい先日のこと。

ふと思い立って、熊本赤十字病院に併設された熊本県骨髄データセンターへ骨髄バンクのドナー登録に出かけた。

簡単な問診の後、採血し、登録の受付が完了した。

それは、本ブログのタイトルどおり、献血よりも簡単なことだった。
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スタッフの皆さんにあんなに丁寧に対応して頂けるということは、きっとドナーのなり手が少ないのだろう。

骨髄には様々な型があり、血縁のある家族でもなかなか適応することはないのだとか。

また、登録後、自分がどのような型なのか教えてはもらえないそう。
肉親や知人に骨髄移植が必要な人がいても、直接的には助けてあげられないシステムなのだ。

そして、骨髄採取の際には、かなりの苦痛が伴うそうだ。
きっと、私が8月に経験した髄液採取後の体調不良に似たものだろう。

しかし、それは一瞬のこと、時間が経てば治る話。
しかし、骨髄移植を待つ人々は…。

帰りに見た待合室の掲示板には、白血病で命を落とした本田美奈子.さんのポスターが貼られていた。
華奢な身体にパワフルな歌声を持つ彼女は私よりも年上だった。
しかし、私はいつの間にか、彼女の享年を追い越してしまった…。
私の行動がもう少し早かったならば、彼女は亡くならなくて済んだのかもしれない。
骨髄の型が合うかどうかはわからないが。


私の骨髄の型が日本のどこかに住む、骨髄移植を待つ、誰かにとって大事な方のものと合致し、命を救うことができたら、と切に願う。

2012/10/25

最近の私

バタバタしまくっている私。
心のゆとりも自由な時間もなかった。
きっとぱさぱさに乾いているのだろう。

茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩を思い出す。


「自分の感受性くらい」茨木のり子


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ




ポジティブな日々


上の写真は、以前ここに書いたカメラマンの田中よしひろさんに9月の終わりに撮って頂いたもの。
この写真を撮って下さったことをご自身のブログにも記して下さった。


慌ただしくて、笑顔を忘れがちだった最近。
今日は久しぶりに何の予定もない日。
自分に水を与える日としたい。

2012/09/19

年齢を感じる時

40歳を過ぎてから、自分は若い気でいても、周囲はそのように見ていないと感じることが多々ある。


昨年の新宿であった出来事。

ファッションビルがあるせいか、比較的若い女性が行き交う新宿駅東南口。
そこへ行くための上りエスカレーターでのこと、エスカレーターに乗る直前に、テレクラの宣伝用のティッシュを配っている男の子がいた。

私は若い女の子達の列に混じり、エスカレーターに乗る順番を待っていた。
その彼は、エスカレーターに乗る女の子たちに向けて女の子が受け取ろうが受け取るまいがお構いなしにティッシュを持った手を差し出す。

暑い中大変な仕事だな~、と思っていた時、私の番に。

「ありがとう!」とクールに受け取る私。


…のはずだったのだが、彼は私の前で、その手を引っ込めた。

つまり、私には、ティッシュが差し出されなかったということ。


現況が把握できないまま、後ろを振り返ると、若い女の子たちには、ちゃんと配布されている。



そっか、私は順番を飛ばされたんだ。



一瞬、ムカーッと来たけれど、なるほど、と思った。

せっかく配布するのなら、効果的にやりたい。
つまり、配布するからには効果的に、つまり電話してくれそうな女の子でないと困るんだな、と。

また、テレクラでスタンバッてる男性諸君も、やはり若い女の子たちがいいだろう。


うんうん、わかる。


だったら、40歳過ぎのオバサンに配布はしないだろう、と妙に納得した。
そんな些細なことからも、年齢を感じるものなのだ、ということがわかった。



そして今日。



熊本市のアーケード街で久しぶりにティッシュを貰ったのだ。

今回配布してくれた人は、新宿駅同様、人を選んで配っているようだった。


その人のおメガネにかなったのね、と妙に嬉しくなる私。

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この写真のように"やったー!"って感じ。


貰ったティッシュを見てみた。





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剛毛に見えたのね、私。