2013/03/21

ありがとう

本当に突然のことだった。

未だに信じられない、というのが本音だ。

私の父が急逝した。


きっかけは、忘れもしない2012年10月2日(火)の午後のこと。
専門学校で担当している午前の授業を終えた私は、携帯電話の不在着信に気づく。
着信は父から、折り返してみると、母が電話に出て、
「昔の熊本中央病院に行く道は、熊大病院の前の道を通ればよかとよね?」
と言う。
「昔の熊本中央病院」というのは、私が小学生の頃の6年間入退院を繰り返していた病院で、よく母に連れられて来たところだ。
母が私に聞きたい内容はわかる。
きっと父と思い出話でもしているのだろう、と思い、その問いの目的を聞くと意外な回答が返って来た。

「お父さんの体調が悪くて、(昔の熊本中央病院のそばにある)熊本市内の病院に向かっとる」
何でも、最近疲れがとれない父は、その前日に天草の自宅のそばの病院で検査・診察してもらったそう。
すると今朝、その病院から電話があり、「紹介状を書いたから入院の準備をして今すぐ行きなさい」と言われたそうだ。
その後、父に電話を代わってもらい話したのだが、普段通りの明るく元気な父に特に異変を感じることはなかった。

午後の授業を終えた私は、父がいる病院へ向かった。
奇遇にも私がお世話になっている専門学校からすぐ近くにある病院だった。
一通り検査を終え、父と母、それに私が主治医から病状の説明を受けることになった。

詳細な検査結果が出る前ではあったが、それまでに出た検査結果の数値の説明を受けながら、父は恐らく成人T細胞白血病だと告げられた。
そして早速抗がん剤を投薬すること、早急に骨髄移植をしなければ手遅れになることなどが矢継ぎ早に伝えられた。
私たちは呆然として、主治医が告げることを理解するまでかなりの時間を要した。

それから父の闘病生活が始まった。
帽子とマスクを準備するように言われ、肌にやさしくおしゃれな帽子を選んであげたら父はとても喜んでくれた。
抗がん剤の投薬で毛髪が抜け落ちることを予見した父は、事前に丸刈りにしてその帽子を愛用していた。
抗がん剤や副作用との戦い、病院を訪れるたびに父の様子は変化した。
親族からドナー適合者を探すべく検査を行ったが、結局その中に適合者はいなかった。
衰えていく体力を尻目に、骨髄バンク登録者の適合情報を待った。
全国に23名の適合するであろう方がいることがわかった。
HLA型(白血球の型)が本当に適合するのか、またタイミングよく提供してもらえるかの確認がとれるまではまだ時間がかかるのだという。
検査結果が出るたびに父は項目毎に結果の数値を記録していた。
投薬のサイクルから体調の傾向もわかるようになったと言っていた。
退院したら闘病記を書いて、同じ病に苦しんでいる人たちを励ましたい、とも言っていた。

年が明け1月、父は病院で新年を迎えた。
父がいる4人部屋では、父以外の方々は自宅で正月を迎えるため外泊を、父は治療周期が合わずに外泊を断念せざるを得なかった。
それを可哀そうに思った母が父と一緒に正月を病院で過ごしてくれた。
私は「今年だけなんだし、そんな正月があってもいいんじゃないの?」と父に軽口をたたいた。
毎年1月2日はいつも父の手配のもと、私の実家でお正月のご馳走を囲むのが習慣となっていた。
それが今年は叶わないことに父は「ごめん」と私に謝った。

1月が終わる頃、HLA型の適合者が見つかったそうだが、父の病状は「待ったなし」の状態だった。
その時に勧められた方法が「臍帯血移植」、父は命がつながったと大喜びした。

2月に入り、臍帯血移植を行うために、熊本市内の別の病院へ転院、準備を行った。
父の体内の造血機能を完全に壊すために、これまで以上の抗がん剤の投薬と放射線照射がなされた。
転院後の父は本当につらそうだった。
しかしながら、自身の年齢がこの処置に耐えられる最後のチャンスだと感じていたようで「もう少し遅ければ体力的に持たなかったと思う。自分はツイている」としきりに言っていた。

そして、2月18日(月)に臍帯血移植が行われた。
移植と言っても、点滴で体内に注入するだけ、ものの10分で終わったそうだ。
父は買ったばかりのスマートフォンで看護師さんに移植の模様を写真に撮ってもらうつもりだったそうだが、まさかこんなに早く終わるとは思わず、看護師さんに撮影をお願いした時には既に移植が終わっていたそう。
気を取り直して移植直後の姿を撮ってもらったそうで、ニコニコしながら私に見せてくれた。
その屈託のない父の笑顔を私は写真におさめた。

その後、父の病状は一進一退を繰り返しているように見えた。
昼夜は食欲がなく配膳を止めたそうだが、朝だけはしっかり食べるようにしている、と言っていた。
また熱が出たり下がったり、これまで感じたことがないような強い腹痛がする、とも。
処方された鎮痛剤が効かず、種類の違うより強力なものに変えてもらったそうだ。
臍帯血が生着するまではひどくつらいらしい、と父から聞かされていたため、家族は皆、時間が解決してくれる、もう少しの辛抱だと信じていた。

病院から私の携帯電話に連絡があったのは、3月15日(金)13時頃のこと。
母の携帯電話に連絡をするがつながらないため私へ連絡した、と病棟の看護師さんは言った。
主治医より直接家族に伝えたいことがある、ということで当日の夕方に来院してほしいとのことだった。
他に連絡手段のない母、しかしながら事前に母から聞いていた情報をもとに驚くような偶然が重なり、本来であれば天草にいるはずの母を菊池で探し出し、二人で急いで病院へと向かった。

主治医から告げられたのは、父の症状や検査結果で判断する限り、がんが再発したと判断せざるを得ないということだった。
しかも、もう体力的に抗がん剤の投薬はできないため、別の薬を用いてがんの進行を遅らせることしかできないそう。
それでも、「最悪の場合は今週末、持っても数週間」とのこと。
こんなに急に、父の命の期限が伝えられるとは、到底信じがたいことだった。

父にはこのことは伝えず、早めに親族に伝え会わせよう、と母と話した。
母は翌日父のもとへ訪れる予定にしていたため、この日父に顔を見せると、勘のいい父のことだから病への士気が下がってしまうのではないかと懸念し待合室へ残り、私はそのまま父の病室へ向かった。

点滴につながれぐったりと横たわる父は、最悪の体調なのだと私に言った。
明日父のもとへ来る予定の母からメールが来ない、と言っていた。
「たいてい前日に何か欲しかものはなかね?というメールが来るけど、(メールが)来んかった。何も欲しかものはなか、とお母さんに伝えとってくれ」
「お前、明日から東京だろ? 気をつけて行かんばんぞ」
私が翌日午後から東京へ出発することを気遣っての一言、それが父の、私にとっての最後の言葉だった。

その日の夜、母と私は親族たちになるべく早く父に会いに来てほしい、と連絡した。

母は一旦天草へ帰ったものの、なんとなく心配だからと言って、また熊本市内の私の自宅へ来た。
母が着いたのは、明けて午前2時だった。
それからしばらく二人で話し、起きたらすぐに病院へ行ってみようと決めた。

3月16日(土)午前7時頃、出かける準備をしていた母の携帯電話が鳴った。
病院からの連絡で、父の呼吸が弱くなったのでなるべく早く病院へ来てほしい、とのことだった。
私の運転で母が親族に電話連絡をしながら病院へ向かった。
あと10分で病院に到着する、というところで、また母の携帯電話が鳴った。
病院からの連絡で、父の心臓が一旦止まったがこれから蘇生を行う、というものだった。

病院に着いたが、父は蘇生処置中のため、会わせてはもらえなかった。

まもなく、看護師さんと当直の先生から説明を受けた。
処置の甲斐あって心臓が動き出したとのことで、父に会わせてもらった。
昨日までとは違い、ナースステーションに一番近い病室に移されていた父、開いている目は既に対光反射をしないと聞いてはいたが、心電図の波は微かに動いていた。
父に大声で呼びかけ泣きながら父の顔や手をさする母、私は父母の前では絶対泣かないと決めていたが、その姿を見て、涙が溢れて止まらなかった。

それから一時間後、2013年3月16日(土)午前9時7分、父は天国へ旅立って行った。

一ヶ月半ぶりに帰宅した父は、これまでの闘病生活からは信じられないほど安らかな表情をしていた。
私には想像もできないほどのつらさからようやく解放されたのだ。

翌日の通夜、その翌日の告別式は慌ただしくも滞りなく終了し、これまでを振り返る時間をようやく持てるようになった。

父は決して諦めなかった。
「退院したら…」を口ぐせに、元気な未来を夢見ることで今のつらさを少しでも和らげようとしていたのだろう。
そして自身が一番つらい状況なのにもかかわらず、しっかり他の人を思いやっていた。
発病してからたった五ヶ月、本当にあっという間の出来事だったが、この間の父の生き様から得たものは大きい。

本来温かい父であった。
苦境の時でも、温かい父であり続けてくれた。
人としてあるべき姿を保つことを最後までその身を持って教えてくれた。

そんな父の意を汲んで、残された家族で手を取り合って頑張っていきたい。

お父さん、本当にありがとう!